thinkLog.

とある社会人の思考ログ。個人的な冒険の書。

車窓

今まで、誰かの葬儀に3回参列した。

1度目は、2006年7月、祖父の。
2度目は、2012年3月、小中学校の同級生の。
3度目は、2016年8月、大学の先輩の。

祖父は、70歳を超えていた。
同級生は、19歳だった。
先輩は、25歳だった。

平均すると5年の間隔をあけて、誰かとの死別を経験している。
その度に、背筋を伸ばすように促されているように感じる。
もちろん訃報を受けてすぐに背筋が伸びるのではない。
どうしようもないどろどろとした悲しみの中を溺れながら彷徨い、底の方まで行きついてようやく、「自分はまだ生きるしかない」という結論にたどり着く。

自分の意志に関係なく心臓と脳が止まる時が必ず来る。そのタイミングはわからないけれど。
早い人もいれば遅い人もいるし、安らかに止められる人もいれば無理矢理止められる人もいるのだろうけども。
自分はどう止まるのかいつ止まるのか、わからないけれど。
でも必ず止まる。その時は必ず来る。それは遠い未来じゃなくて、来週の水曜日かもしれない。来年の連休中かもしれない。

死という終着点に向かう電車に、無理矢理乗せられているような気分だ。
車窓からはいろんな景色が見える。いい景色も、わるい景色も見える。雨の中を走ることもあれば、晴れの中を走ることもある。
そもそも、それをいい景色と思うかわるい景色と思うかは自分次第だ。
自分の意志ではどうにもできないような地形の中を、電車が走っている。
きっと、電車から飛び降りれば景色を見ることを終わらせられるだろう。

でも、もう2度と一緒に景色を見れない人たちがいると思うと、その人の分も景色を見ておこうと思える。
きっと目を逸らしたい景色も中にはあるのだろうけど、それがずっと続かないのは今まで見てきた景色からわかっている。

いずれ終着点に着くのだ。
見届けたいと思う。電車はとんでもないところを走るかもしれない。その度に電車から飛び降りたくなるかもしれない。

それでも一連の景色をすべて見終えて、どんな気持ちで終着点に着くかはわからないが、見れる景色は、できる経験は、記憶の中に入れておこうと思う。

もう景色を一緒に見れない人たちに自分ができる最大限の礼儀は、それしか浮かばないのだ。