thinkLog.

とある社会人の思考ログ。個人的な冒険の書。

SNSにおいても継続はなんとやらなのか?

このブログを突発的に作ってから約1年。
振り返ると作成した記事は17本。
テーマは仕事、作品紹介、個人的な振り返り、頭の中のとてもどうでもよい空想を文章化したもの、等。
読み返してみるとあまりメッセージ性は強くない。あんまり主張していない。

まあでも、この中途半端なブログが1年続くと思っていなかったからよく続いたなあという気持ち。社会人になっても駄文を書き留めることはある程度可能だ。

ちなみにtwitterはアカウントを作ってから丸5年経った。一度もツイートを全消しすることなく、鍵をかけることもなく、学生が終了することでツイートの頻度は減ったものの、まだ続いている。Twilogでいとも簡単に2010年10月の自分のつぶやきに遡れる。

twitterもこのブログも、意識して努力するようにして、継続してきたわけではなく、ただなんとなく使いたい時に使って気づいたら1年、5年と経っていた。
人によっては「気持ちを整理したい」とか「見せたくない人に見つかった」とかその他もろもろの理由でアカウントやツイートそのものを消したりするのであろうが、私にはそういった精神的イベントが起きることもなくただ淡々とログを垂れ流し続けて今になった。

多分これからもそんな感じで垂れ流し続ける気がする。多分葛藤はこれからも多かれ少なかれあるだろうけど、自主的にデータを消去することはない気がする。Webサービスが終了してサーバーが無くならない限り、多分データは残る。

あと5年経ったら10年分の自分の他愛ないツイートが蓄積されることになる。
そしたら本気でテキストマイニングでもしてみて、めでたく三十路を迎えようとする自分に、過去のツイートから何か気づきを与えてあげたい。



理論と実践とわかったふりの限界点

大学を卒業して社会人になってから感じることの一つに、「わかったふりの限界」がある。

社会人になってから思うことは、とにかく「わからないことが多すぎる」に尽きる。
大学時代ももちろんわからないことは多々あったはずだが、「わかったふり」をすることで大抵のことはどうにかなった。
というのも私が所属していた学部の試験がほとんどレポートを課し、提出することによって単位を与えるという仕組みであったからだろう。

試験以外でも振り返ってみれば大学時代、そこそこ動き回ったためか情報は常に溢れかえっていた。左から右へ流れる情報を受け止めて、解釈して、また流す。
自分なりに情報を吸収していたつもりだったが、これが本当にただの「わかったふり」だった。
何故「わかったふり」だったのか、理由は簡単で実践する場がなかったからだ。

と思うようになったのは仕事を始めた現在の状況と比較をしたからだ。現在は逆に実践の場しかない。
①理論を知る
②よく理解する
③理解したことを実践の場で試す
④試した結果から学ぶ
「わからないことが多すぎる」現状を打開するには、上記4つのステップをどうやら踏むしかなさそうだと最近になって感じている。
①は本を読んだり上司に注意を受けたりして行うわけだが、②をすっとばして③に行けたことがない。
いや満足のいく③に行ったことがない。そして満足のいかない③に行ったあと、たどり着くのはそれを確認した上司から一言「何もわかっていない」だ。

「じゃあ結局どこからやり直せばよかったんだ?」と頭を抱える時間が非常に勿体無い気がして、ひとまず文章にまとめてみようと思って書いてみた。
全然まとまっていないけど。

受験勉強時に【「わかったふり」は危険です】みたいなことを散々言われたが、それは何も受験をする中学生や高校生だけに関係することではなく、社会人になってからも当たり前のことなのだと最近改めて感じた。


峠道かけあがるごとく

一度走ったことのある峠や、
一度登ったことのある山は

もう一度挑戦しようとすると、二度目の方が一度目よりはるかに楽だ。
それは恐らく峠や山の全体像が見えているから。その結果ペース配分ができるから。緩急のつけどころがわかるということは、自身のエネルギーを適切に分配できるということであり、限りある体力を有効活用することができるということだ。

全体像が見えると、楽

ということは、人生においても全く同じことが言える気がする。

生まれてから死ぬまでの行程が全て、生まれた瞬間にわかっていれば、大層生きるのが楽だと思う。
どこまでは力不足だから仕事が辛くて、どのあたりから余裕が出てくるか、どのあたりで難病にかかるから、それまでにやりたいことはやっておくべきとか。
どのあたりでいい出会いがあるか。
すべてわからない。

いまの仕事は向いていないのではないか
本当に自分の好きなことは何か
自分にとっての天職は何か
そもそも天職につけるのか
「なんとなく」働いて人生を終えてしまうのか

すべてわからない。これから死ぬまでの道のりが見えない。
どこまで辛いかわかっていればペース配分ができるが、そうもいかない。これが20代というものか。

「先がわからないからこそ楽しいのだ」くらい言えるようになりたい。

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この先行きがわからないまま、走り続けなくてはいけない感じ、ハンターハンターの最初の試験内容と似ている。

休日にしてきたことを棚卸ししてみる

休日には2種類ある。
連休と土日だ。業界によってはこの限りではないが、今のところ平日5日間以外は休みだ。

社会人になってから連休を迎えるたびにやってきたことといえば、ただひたすら旅行なので、連休に関しては振り返ることはない。旅行先の振り返りは別の機会にしようと思う。

では社会人になってから土日に自分は何をやってきたのか、棚卸ししてみる。

①誰かとどこかへ行って何かをする(40%)

地元の友人と、大学時代の友人と、会社の同期と、バイト先が同じだった人と、昼ごはん、晩ごはん、映画館、美術館、カラオケ、バーベキュー、宅飲み、などなどありがたいことにこういったことをするのに土日の時間を使っていることが最も割合的に多いのではと思う。
ただ、今のところ私が会ってきた人たちは大概が未婚者であり、彼ら彼女らが既婚者になるにつれてそういう機会も減るのではないかとも思う。

②一人で喫茶店でぼーっとする(30%)

一人お気に入りの喫茶店に行き、コーヒーを飲みながら一週間の振り返りをしたりする。一人で生きられるとは全く思っていないが、一人の時間がないと生きられない。たぶん。

③運動(15%)

社会人1年目の頃は、時々泳いでいた。というのも走るのが苦手で、別にジムにも興味が無かった私は、唐突に運動をしたいと思って市民プールに行き、1000mくらいを泳ぐということを一時期していた。
社会人2年目になってからは知人にパーツをもらったことをきっかけに、そこそこちゃんとした自転車を購入し、そこそこちゃんとしたサイクリングを始めた。

④仕事とか勉強(10%)

未だに土日出勤をしたことはないが、いかんせん家でも仕事ができる環境であり、ちょろっとPCを開くことは度々ある。
さらにそれとは別に、仕事に関係のある勉強時間をちょいちょいとることがある。家とか家の近くのスタバにて。

⑤その他(5%)

惰眠をむさぼる、買い物をするなど。
本を読んだりゲームをしたりするのは大抵平日の移動中だったりするので休日にわざわざすることは少ない。


自分が社会人になってから土日の時間を使ってやってきたことは大きく分けると以上の5つだ。
こうして整理してみるとなかなか面白い。

たぶんそこそこ一般的な社会人の休日の過ごし方と乖離している気がする。(普通買い物の時間はもっと長いだろうし、合コンとかも含まれるはず)

学生時代、①はよくしていたが、②と③は社会人になってからである。

本を読む時間は学生時代よりも増えたが、映画やアニメを鑑賞する時間は圧倒的に減った。なんとか時間配分的に増やしていきたい。もっと小説を読む時間も増やしたい。
あと油絵をどこかのタイミングで始めたい。

精神的な視野と物理的な視野

人は思い悩むと視野が狭くなる傾向がある。
と、思う。何か統計的なデータがあるわけでもない。探せばあるかもしれないが。
あくまで自分の経験則に基づくことである。
視野とは物理的な視野ではなく、精神的な視野である。
通常時が110°くらいだとしたら、自殺寸前は5°くらいなのではないか。
その5°という狭さが不愉快で、その状態から脱するために息を止めるのではないか。

と、数日前にいじめで自殺してしまった子のニュースを見て感じた。

何も息をするのをやめなくても、狭くなった視野は広げることはできるじゃないかと思うのが通常の感覚だが、恐らく視野が狭まれば狭まるほどできなくなるのだろう。

視野の狭さは、ある程度まで行ってしまうと不可逆的なものになってしまうと言える。

思い悩む以外にも、いらいらしたり、悲観的な思いを抱いたりそんなマイナスな感情を持った時は常に視野が狭くなると考えている。

5°くらいの視野で見たら、それはもう世界は暗くて仕方ない、きっともう自分が思い悩む原因しか見えない。

自殺を本気で考えたことはまだないが、自殺してしまった中学生が、行為を遂げるまでに見ていた世界はいかに暗くて狭かっただろうと想像すると非常にやるせない。


何かひとつでも、狭くなった視野を元に戻してくれる、さらに言えば広げてくれるような心の拠り所とも言えるものがあるかないかで人生の難易度は変わる。

人によってそれはお酒だったり、人の愛情だったり、もろもろだったり、するんじゃないか。

中学時代、受験勉強があまりにも嫌になって、なんとなくベランダに出た時に星空を見てから、私にとって視野を広げることすなわち空を眺めることになっている。

何にもない広い空を眺めると、もはや自分が何にいらいらしてたのか、何に悩んでいたのかを忘れる。

だから今でも空が狭い都会には住めずにいる。



詩とポエムの違い

今最もしてみたい実験。

女子高生のブログなりTwitterなりの個人的なメディアに、自身の詩と谷川俊太郎の詩を混ぜて投稿し、閲覧者はどのような反応を示すのか。

「なんかいつものポエムと雰囲気が違う」なのか
「いつも通りのポエムだ」なのか
谷川俊太郎の詩を引用している」なのか

プロとアマチュア、谷川俊太郎と女子高生の違いは何か。
勿論積み重ねてきた詩人としてキャリア、と言ってしまえばまさにその通りだ。
詩として未熟か否かの議論になるのは理解できるが、時としてアマチュアの書いたそれは、嘲笑気味に扱われる。

Twitterに何気なく自身の気持ちを散文形式で綴り、それが他者から「ポエム(笑)」と表現される現象。
恐らく無名の詩人が書いた作品が同じ処遇を受ける可能性は低いと思われる。
何故か。
それを書いた人が「詩人」なのか「女子高生」なのか、という肩書きの違いなのだろうか。

このように思ったのは最近谷川俊太郎の詩集を読んだからだ。久しく純粋な「詩」に触れていないと思った。
そもそも谷川俊太郎と言えば「朝のリレー」しか知らなかった私が、読もうとして詩集を手に取ったわけではない。本屋で表紙の写真がきれいで、ふと手に取ったらそれが詩集だった。それも谷川俊太郎の。

あさ/朝

あさ/朝

身分が学生ではなくなったことで、ますます「詩」に触れる機会が減った。高校時代までは恒常的に国語の授業を受けることで、触れていた。
大学時代も希望すれば詩を扱った授業が受けれた。
社会人になった今、あまりの機会の少なさにこの「あさ」という詩集を読み終えた時に得体の知れない新鮮さを感じた。

純粋な「詩」には触れていなかったが、J-POPの歌詞や、コピーはどうなのだろう。あれは、「詩」の部類に入るのだろうか。個人メディアに溢れる大量のポエムは。どうなのだろう。

それを書く人が、コピーライターだったり、ミュージシャンだったり、女子高生だったりすると「詩」ではなくなるのか。

太古の昔に編纂された万葉集に、「詠み人知らず」があるのだから、遠い遠い未来に、誰かが現代のツイートを編纂する際は女子高生のポエムツイートも「詠み人知らず」として生き続けるかもしれない。



慣れること=疑問を感じなくなること?

「思考が停止している」


時々、色んな人に言われた言葉がふと脳内に浮かぶ時がある。リフレインする。
とりたてて特別な感情(好意なり嫌悪なり何なり)を抱いている人に限らず、色んな人に言われた言葉が浮かぶ。
言葉自体も、叱責、賞賛、その他取り留めのないことやら、ジャンルを問わず浮かぶ。

自分が言い放った言葉は記憶に残らず、逆に他人から受け取った言葉はなんであり記憶に残る。

つい4ヶ月ぐらい前に会社の先輩に言われた言葉で、時々思い出される言葉「思考が停止している」。

ふられた仕事に対して、自分では判断がつかずに「なんとなく」仕事をした結果、私に先輩が言い放った言葉。

どこまでも突き詰めて考える。どこまでも現象の理由を探る。何故?と疑問を持つ。そんな先輩。

私は判断する時に疑問を感じなかった。「きっとそういうことになっている、そういうルールがあるんだろう。そう従っておけばまぁ問題は無かろう。」と思って仕事をした。
しかしその時の自分が「思考が停止している」状態とまでは思っていなかった。
恐らく無意識の内に面倒ごとを避けようとしていたのだろう。

先輩の考え方全てが絶対だとは思わないが、「ああそういう人もいるのか」と感じた瞬間だった。まさに職人気質。

私は妥協が許されない職業は人の命に携わる人と、ものづくりに携わる人たちだけだと(勝手に)思っていた。

ただ本来はどの職業においても共通で、賃金と等価交換されるべきは、妥協のないスタンスなのかもしれない。

最初は疑問を感じていたことも、質問をするとより面倒なことになりかねないから感じなくなっていくのかもしれない。

それが「慣れる」ってことなのかもしれない。と最近感じた。

そうなっていくのは怖いことだと思うから、これからも度々あの言葉を脳内に浮かべようと思う。