思い出すという名の魔法
思い出したくても思い出せないこと、思い出したくないこと。
思い出せていないだけで、何かとても大切なことを自分は忘れているのではないか?もしそうだとしたら自分は一体何を忘れている?
ーーそう考えて勝手に怖くなってしまった。それが私が森見登美彦の「熱帯」を読み終えて感じた率直な感想だ。
同じ感想を抱いたことがある。新海誠監督の映画「君の名は。」を観た時だ。自分自身の記憶と対峙し、思い出すという行為を繰り返しながらストーリーが展開していく様が似ていると思った。
誰も最後まで読んだことのないという奇本「熱帯」を巡り、途中まで読んだ人々が集まり各々の記憶を遡り少しずつ「熱帯」に近づきながら物語は進む。
何故思い出せないのか、最後まで読んだ人がいないというのはどういう意味なのか、最後に待ち受ける顛末は何なのかーーそうか、先が気になってページをめくる手が止まらないとはこういう体験のことかと腑に落ちながら、贅沢な読書体験を味わうことができた。それは同時にこの物語の世界に没入し、登場人物たちと一緒になって「熱帯」の謎を追いかけた体験を指す。
読了時には旅を終えた気持ちになった。
森野登美彦著の「熱帯」の中には佐山尚一という人物による謎の著書「熱帯」があり、またその中には実在する奇本「千一夜物語」が存在する。物語の中に物語がありその先にはまた物語がある。では今こうして森見登美彦の熱帯を読んでいる自分自身も物語の中にいるのではないか。
作中に出てくる以下の言葉に私はすっかり納得してしまった。
「まだ終わっていない物語を人生と呼んでいるだけなのだ」
だから読み終えた私は今、何か大切なことを忘れているのではないかと怖くなったのである。